Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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新聞記事より「不明の息遣い」

今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「ここから先へ行っちゃったら危ねえなというところへさわらないと、表現って出てこない。吉増剛造 」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「私が言葉を用いるのではなく、言葉が自ら歌い、語りだす位相、つまり言葉以前の『不明の息遣い』にまで遡ろうとしてきたと、詩人は語る。そのために人との交通も遮断し、己の言葉が枯れ果て、折れる限界にまで行こうとした。『きょとんとしてる』赤児みたいに、言葉のしぐさをぎりぎりまで削いでいったと。『我が詩的自伝』から。」自己表現はどうしたら出てくるのか、私はそれを煮詰めたことがありません。自己表現をやっていると公然と言っているにもかかわらず、それはどこから湧いてくるのか、どんな境地になったら表現が生まれるのか、私には自分の足元を掬われるような今日の新聞記事に気を留めたのでした。「不明の息遣い」に到達し得る精神状態に、ひょっとしたら無意識になっているのか、それすらも私には分かりません。言葉は普段から意思の疎通や伝達に使っているので、言葉は生活と隣り合わせの容易さがあり、それだからこそ言葉を自分なりの表現にしていくのは逆に難しいし、「言葉のしぐさをぎりぎりまで削いで」いかなければ表現の域に達しないのかもしれません。私が若い頃に詩に憧れた理由がそこにあるように思います。普段使いな媒体が何か特別なものに感じられた瞬間に、私は詩に魅了されました。さらに言葉だけではなく、あらゆる創作分野に詩が宿ると私は考えていて、自分が作っている彫刻にも詩的何かが存在していると私は感じています。彫刻表現は言葉に比べると、素材と対峙して造形するという抵抗があり、また素材の声を聞いて親和的に対話する場面もあります。私は無意識に「不明の息遣い」を捉えているのでしょうか。生活と隣り合わせにない彫刻だからこそ表現にまで達するのに時間がかかり、それ故自らの作品に対してこれは自己表現だと標榜できると私は信じているのです。

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