「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著 野中邦子訳 白水社)の第7章である「反射としての自画像」について、気に留まった箇所を取り上げます。「ある意味で、すべての肖像画は見る者を映しだす自画像である。『目は見ることに飽くことがない』ので、私たちは肖像画を自分の知覚と経験に照らしあわせる。芸術作品の錬金術のなかで、あらゆる肖像画は一枚の鏡になる。~略~古代ギリシャ人は、鏡に映ったイメージについてどう考えていたのだろう。プラトンの時代、ソフィストたちは、鏡に映じた姿を、肉や骨という生身の存在の虚構性と同時に考えていた。彼らにとっては、どちらも幻影なのだった。プラトンに晩年の対話では、こうした考えをからかい、ソフィストたちはただ目をつむって、自分の感覚がもたらす情報を受け入れまいとすることで現実ー『実体』や、あるいはそのイメージーを拒否しているだけだといった。~略~鏡は、私たちの体がまとう虚しい装飾を映しだすが、同時に真実の光を投げかけて、思慮深い人生に啓示を与えもする。鏡には、マルタとマリアという二つの性質が備わっている。マルタは現実の世界と肉体そのものを見る。マグダラのマリア(ここでは、マルタとマリアは姉妹である)は人の内なる魂を見る。実際のところ、この二つの側面は、マグダラのマリア一人のなかに共存している。~略~すべての肖像画が鏡だとしたら、誰もが見ることのできる開かれた鏡だとしたら、私たち鑑賞者は、その作品に感情と意味を与えることによって、さらにその肖像画を映す鏡ともなる。戦士は死にゆく自分の顔を盾に映して見るが、彼自身の顔は、その人間らしさのなかに、世界の誕生と成長と死を反映させている。こうした明らかな役割の混乱、アイデンティティのもつれ、すなわち創作者とその作品、肖像画と鑑賞者が溶けあい、また分離することによって、反映されたイメージのなかに(どんな芸術作品にもいえることだろうが)緊張が生まれる。」今回はここまでにします。