Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「悪夢としてのイメージ」について

「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)の第6章である「悪夢としてのイメージ」について、気に留まった箇所を取り上げます。本章はマリアナ・ガートナーの絵画についての考察です。「ガートナーはカルガリー大学で絵画と写真の両方を学んだが、すぐに写真をやめて、絵画に専念するようになった。1963年、マニトバ州ウィニペグで、ハンガリー移民の両親のもとに生まれたガートナーは、子供時代に中欧を訪れ、ブダペストですぐれた美術作品の数々に接した。~略~何が起こったのだろう?肖像画という伝統的な絵画ジャンルに、ガートナーは彼女自身の悪夢のような注釈を付け加えた。中世の筆耕者たちは中心となる文章の周囲にいたずら書きのようなメモを書き加え、隠喩、ほのめかし、意味ありげなシンボルなどによって、主題に変化を与えようとした。~略~マリアナ・ガートナーの絵は寓意画ではなく、わかりやすい筋書きもない。《オウムと少女》は物語の一場面ではない。動きがなく、時間の流れのなかからわざと切りとった瞬間である。この少女とオウムを見て私たちが困惑するのは、これがわかりやすい物語を構成する一つのエピソードでもなく、シンボルでもなく、寓話でもないからであり、また無邪気に見える少女とつながれた鳥の関係が愛と憎悪を同時にあらわしており、それが陳腐でも、偶然の産物でもないからである。~略~主題をそれと関連する部分で描きだすこと、視覚的な転喩の集合によって生まれる一種のゲシュタルト的な創作物は、それまでの伝統的な図像学上の語彙を、個々の記号がもはや明らかに常識的な解釈とは一致しないような語彙へと変化させる。常識があるとしても、それはあくまで個人のものであり、そこでの『常識』とは共有されず、ただ筋が通っているというだけである。いいかえれば、万華鏡のなかの模様のように、はっきりと区別のつく個人の特徴をもった肖像画は、見るたびに姿を変える。色つきのガラスをほんの少し回すたびに、模様が変化して別の物語がくりひろげられるのだ。」今回はここまでにします。

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