今年7月に発表する陶彫による集合彫刻が完成しましたが、その完成を待たずに次のイメージが湧いてきています。以前私がNOTE(ブログ)に、現行の制作が佳境に入りつつあり、また苦しい状況が続いている時に、次作のイメージが降ってきたり、湧いてくるのは現実逃避なのかなぁと書いた覚えがあります。それは今も同じで、何にもないところに新たなイメージはやってこないのです。私には突然発想が出てくることはなく、現行制作の展開である場合が多いのです。たとえば現行制作の「発掘~六蹟~」は6体のブロックが向き合い、ひとつの世界を表現していますが、これを集合と考えるならば、次なる展開は拡散です。陶彫ブロックを画廊の床に点在させて、それぞれのブロック同士で響き合う関係が作れないかを模索しているのです。つまり、少ない塊で大きな空間が出せることが私にとって最良の世界になるからです。あるいは物質同士で響き合いながら何もない余白の空間に意味を持たせようとしているのかもしれません。壁に掛ける作品でも現行制作の展開として新作を思い浮かべています。幾層にも重なる空間をどう平面に落とし込むか、平面は一方向からの切り取りなので、平面画面の中だけで完結しないイメージがあります。その裏側を予感させるカタチをどう表現するか、立体作品とは違った世界がそこにあると考えます。また、私にはイメージの展開や発展は弛まぬ訓練によるものという考え方があります。それは感覚の先鋭化を齎すでのはないかと願うところでもあります。センスは磨くことができると信じていて、それは制作の実践だけではなく、観賞によっても成し遂げられるものだろうと思います。次なる作品のためにあれこれ考えてしまう癖が私にはありますが、彫刻は哲学であると誰かに言われたことを今も気にしていて、人体塑造の習作をやっていた頃は、写実の巧拙だけが全ての時代がありましたが、現在のように立体作品によって空間を変容させようとしている動機がある以上、これはある種の哲学と言ってもよいのではないかと思います。